福西電機株式会社

福西ストーリー

1 福西電機誕生秘話ー今も生きる起業精神ー

「世の中を明るくしたい」

1946年10月、大阪市北区太融寺町において、小さな電気工事材料販売店が産声をあげた。電球の空箱を積み上げても、わずか15坪の店内がいっぱいにならないほどの心もとないスタートだったその店舗の名は、「福西電機商会」。福西貞夫が興した、後の福西電機株式会社である。

1915年、兵庫県に生を受けた福西貞夫は、「周囲の人々をどうしたら幸せな気持ちにできるか」を考え行動できる、ホスピタリティ精神にあふれた人物であった。

自身も7発の砲弾を受け死線を彷徨う戦傷を負った軍隊時代、班長をつとめた酒保(兵隊に食料を販売する店)にて、集まってくる兵隊達につかの間の楽しみを提供したいと、自身も生涯好んだタンゴの名曲「イタリーの庭」をかけていた。海外の音楽は御法度という時代、この行動を聞きつけた将校に殴られたりもしたが、福西は決して止めることはなかったという。

そして終戦後、郷里に帰還した福西を待っていたのは、悪夢のような焼け野原だった。
自身の知る戦前の大都会の姿からは想像もつかない、真っ暗となった大阪の地に立った時、福西の心に芽生えたのは、「よしっ、この景色を明るくする電気の仕事で世の中のお役に立とう」という想いであった。

この精神は70年を経た現在も、「我々は至誠を傾けて総ての環境を明るくする為に働く」という福西電機の社是の中で生きている。商いを通じて、人々と社会の幸福をひたむきに追求していった結果、福西1人で始まった小さな電材販売店は、売上800億円を超える企業へと成長していく。

2 混乱の時代を超え躍進へと変えた秘密

「私たちは、同業他社が無定見な値上げをした際に
『適正な価格』を旗印に、
懸命になって異常な値上げに対抗し、工場業界のご理解で非常な成果をあげ得たことを記憶されていると思います。」

(1974年方針発表より)

1946年の開業から、幾多にも及ぶ時代の荒波が福西電機を襲い、その度に乗り越えてきた。
特に様々な苦境が押し寄せてきた1972年から1975年を、福西電機では会社にとっての「試練期」であったとしている。この「試練」を耐えぬくことが出来たのは、自社のみならず業界全体の安定までを見通す福西貞夫の明確なビジョンと志、そしてそれを身を粉にして支えた社員達の努力であった。

1970年の万博需要の反動で市場が未曾有の支払いリベート競争に突入し、正常な利益確保が困難となっていた際も、福西貞夫は大阪松工会会長として的確な対策を提案し市場安定へと尽力するとともに、社内に対しては「“魅力ある福西電機” として、常に得意先を大切に扱い、福西と取引することに於いて物心ともに利益を得、将来共安心して取引が出来ると思っていただくことが大切だ」と終始説いていた。

業界の秩序維持や市場の安定を重視するその姿勢が、顕著に現れたのが1973 年に始まった「電線よこせ」デモの際であった。電材商品の急激な需要増加による一斉値上げや品切れにより業界全体が混乱を極める中、福西電機は各所に材料事情説明会を開き、得意先との交流を深める中で一層の理解と協力を要請。公正な価格のもとに公平な資材を配分することで好評を博し、業界内において福西電機の存在を一段と強める結果となった。まさに危機を千載一遇の機会へと変えた瞬間であった。

一企業としての利潤追求のみならず、社会への貢献を礎とする精神こそが、幾年の荒波を超え現代まで導く灯火となったのである。

3 福西電機を未来へと前進させる原動力

商売をしていく上で大事なことは、商機を逃さないということ。
そのためにはこれからの時代はこう変わっていくであろうと、
動物的な勘みたいなもので目ざとく情勢をとらえることが必要だ」

「これからは商品が従来のように単品の形だけでなく、むしろシステム化された商品として売れるケースが増えていくであろう」
「ソフト化された使い道を開発していかないことには商売は決して大きくならないだろう」
現代のビジネスモデルにも通じるこの言葉は、福西貞夫が「ハードからソフトシステム化へ」をスローガンとした1985年頃のものである。福西自ら「ニュー電材」と呼んだこの思想は、当時としては革新的とも言えるほど時代を先駆けたものであった。変化を恐れず、常に新しいものへ挑戦とする姿勢が躍進の原動力となったのである。

それは福西電機の人材育成の姿勢にも表れている。一時、社員に年度ごとに配布されていた「経営方針」には、今後を見据えた「長期経営計画の進展」と「個人のビジョン」が非常に具体的に記されている。特に、個人に対しては今後の給与の変化や居住地、貯蓄の目安といったライフスタイルの面にまで言及し、時には独立などの計画事例までを提示しながら、社内そして社会に必要とされる人材への成長を後押ししている。

福西電機ではその経営理念の中に、「社員とその家族の幸福な生活を第一の目的とする」など、社員およびその家族に対する文章が盛り込まれているが、このような部分にまで気を配るというのは、一企業としては非常に珍しい。しかしこの思想こそが、社員が目標と生きがいを持ち、精いっぱい働くことのできる環境を作りだしてきたのだ。

先を見越す目と、そのビジョンを実現できる人材、その両方が揃って初めて、福西電機は今日までの躍進を実現し、新たなる可能性へと踏み出していけるのだ。

4 あなたの周りにも広がり続ける福西電機

「販売は無限にある」

「福西電機は総合エレクトロニクス商社であり、販売する商材はその時代・時代で移っていくニーズと共に変わり続けてきた。傍目には福西電機の名前と結びつかないものが多いが、企業と企業、技術と技術を結びつけることで、日本のモノ作りの現場や人々の生活環境を下から支えてきたのだ。

過去を紐解いてみると、1966年には国産の科学衛星(L4S)第一号の打ち上げを目指して建設中だった鹿児島県内之浦基地(東大宇宙研究所)M型ロケット発射設備の電気計装工事を受注。特機技術陣は約半年間にわたり現地にのりこみ、あらゆる難関を突破してみごと工事の全てを完成させた。近年の小惑星探査機「はやぶさ」で湧く、我が国の宇宙開発の幕開けにも一躍を担っているのである。

前年には福西電機も「アメリカ館」「ソ連館」などの電気設備に関わった大阪万博が終了し、日本全国情勢が悪く、特に関西経済は肌身に感ずるほど厳しい年であった1971年。福西貞夫はこの年の経営方針発表において、「“販売は無限にある” の言葉の様に厳重な選別感と、新しいルート作り、今は当社のウエイトが少ない堅実経営の販売先に集中していけば決して心配はありません。」と、社員に対して述べている。この言葉通り、1978年には特販電材、産業機材、制御機器の3 営業所を、1980年には住設営業部を、1981 年にはシステム開発部を次々と開設・発足し、その事業領域を広げていった。

現在、住宅用・施設用の照明や映像機器、セキュリティといった目に見える商品から、工場用の計測機器、制御機器といった商品まで、あなたの周囲にも福西電機が販売した商品は広がっている。これは福西電機とその社員が、「販売は無限にある」の言葉の基に、時代時代の人々のニーズを探り、その全てに誠実に的確に応えようと努力を続けてきた一つの結果なのだ。

5 福西電機が目指す新しい社会の可能性

「総ての環境を明るくする為に」

人々や社会のニーズに応える形で、その事業領域を拡大し続けてきた福西電機。総合エレクトロニクス商社としての存在価値は、技術や資材、商品が急速に複雑化・多様化する近年では、さらに高まっている。
その対象の大きさから、一企業が単独で推進できないようなプロジェクトでは、そこに関わる企業や官公庁、自治体、金融機関、大学・研究機関などの連携を図る上でのハブ的機能が求められている。それは、総合エレクトロニクス商社として、機器や技術の知識、そして商流に明るい企業=福西電機だからこそ、務めることができる役割なのだ。

このような「福西電機だからできる」、「福西電機にしかできない」という事業分野の登場。これも、日の当たらない場所からでも企業と企業、技術と技術を結びつけ、日本の工業現場や人々の生活環境を下から支え続けてきた一つの結果であろう。機器に含まれる小さな部品から、「社会」そのものまでを対象としたソリューションまで。未来に向けて、その事業の可能性はさらに広がり続けている。しかし、その根本にあるのは、「我々は至誠を傾けて総ての環境を明るくする為に働く」という創業精神である。